沖縄ではまたしても、米軍兵による少女暴行事件が発生した。

おっと、今、迂闊に「またしても」などと言葉を発してしまったが、事件の経緯が明らかになるにつれて、どうやら、「またしても」ではないようであるItalian landscapes

各所では一般市民レベルで、この事件に関する議論が活発化している。「鬼畜米兵」的な意見と、「のこのこついていった少女が悪い」的な意見とに二分され、互いに対立の様相を呈しているが、いずれも一応は真理であり、論点の置きどころが異なる以上、双方の意見が一致することはあるまいhome improvement

私などは「どっちも悪い」で済ませてしまうところだ。事の軽重はさておき、これが最も的確な意見であると思うし、捉えている本質が異なる議論を前にして、両者の妥協点を見出そうなどと無駄な思考能力を使いたくないのだ。

ああ、議論というものの何と面倒なことよ。

何がしんどいって、論点が外れて議論が思わぬ方へ展開したり、噛み合わないまま堂々巡りになったりするのが耐えられないのだ。「もう、ええわ」という気になってしまうのだ。

例えば、何かに激昂している御仁に向かって、「あなた、その言い方はないでしょう」と言ったとする。するとその御仁、「自分は間違ったことは言っていない」と主張する。もう、既にこの時点で論点が噛み合っていない。内容の是非を問うておるのではなく、「言い方の是非」を問題にしているのに、相手はどうあってもその齟齬を認識しない。これではどちらか、いや、自分側が折れなければ未来永劫にこの議論は収束を迎えない。

明確な対立意見であれば、何とか論破してみせようという気にもなるが、論点がずれてしまったのではどうしようもないのだ。

「人間の相互理解」とは、何とも高邁な言葉であるが、こと白熱した議論における相互理解などとは、最早仙人の境地に達した者でないと不可能なのかもしれないFuneral flowers